ジョン・フルシアンテは元レッチリ(レッドホットチリペッパーズ)のギタリスト。
世界的バンドであるレッチリを2009年に脱退し、現在は商業的な音楽制作とは距離をおいて、淡々と自身の音楽に対する見識を深める試みに取り組んでいます。
具体的には、トリックフィンガーという名前でソロ作品をいくつかリリースしていたりします。
元はレッチリの大ファンであった彼が、その憧れのバンドへ18歳で加入。華々しいロックスター街道を歩みつつも麻薬中毒に苦悩するなど、波乱万丈な人生を送っています。
そんな彼の生涯の一部を見ていきましょう。
RHCPの公式SNSアカウントで、ジョン・フルシアンテ脱退以降にギタリストを務めていたジョシュ・クリングホッファーがバンドを抜け、フルシアンテが再びギタリストとして加入することが発表されました。
2019年12月某日の発表で、TwitterのワールドワイドトレンドにFruscianteが記載されるなど、大きな話題となりました。
1970年にニューヨークに生まれたジョン・フルシアンテ。父母とともにアリゾナ、フロリダへと住まいを移していました。
その後、両親が離婚。ジョンは母親とその恋人と一緒にカリフォルニアへ移住。当時このエリアでは「LA Punk」(ジャンルというわけではないが、この地域で当時活動していたパンクバンド達を括ってそう呼ぶことがある)が人気でした。
9歳のジョンはLAパンクのバンドであるGermsになり、10歳の時にはGermsのデビューアルバム「GI」の曲をギターで演奏できるようになっていました。
なおジョンがパンク小僧であったことは有名です。本来はアングラで激しいパンクを好んでいた彼は、後にレッチリで名声を掴みますが、自身の理想と現状がかけ離れていることや周囲の期待からくるプレッシャーで麻薬に溺れていくことになります。
ニルヴァーナのカート・コバーンもアングラ志向であるにも関わらず商業的な成功を達成してしまったことで心を病んだというのは有名ですよね。ロックスターの抱えるプレッシャーとストレスというのは相当なものなのでしょう。
その後、ジェフ・ベックやジミー・ペイジ、ジミ・ヘンドリックス、フランク・ザッパなどの超有名ギタリスト達の音源を聞き漁り、それらの超絶ギターを演奏できるよう何時間も練習するようになっていきました。
14歳の時、彼のギター講師がレッチリのギタリストオーディションを受けるということをきっかけに、レッチリを知ることになります。
15歳の時に初めてレッチリの演奏を見て、それを機にのめりこんでいきます。
なおジョンは16歳の時に親の許しを得て高校を中退。ミュージシャンとしての腕を磨くため、親の支援を得てLAに移住し、日本でいう音楽の専門学校でギターコースに参加しましたが、すぐに辞めてしまっています。
15歳でレッチリに心酔したジョン。バンドの中でも特に、創設メンバーでありギタリストのヒレル・スロヴァクに心を奪われていました。まさにジョンにとってのアイドルがヒレルでした。
とはいえレッチリは当時まだ世界的バンドではありません。自身もミュージシャンであったジョンは、他のファンと比べて、レッチリとの距離が近かったのか、メンバーと交流を持つことが度々ありました。
例えば、1988年頃にジョンは「デッド・ケネディー」というバンドのドラマーとジャムセッションを頻繁に行っており、そこにレッチリのベーシストであるフリーが参加したことがありました。そこでのジョンとフリーの演奏は「相性が良かった」そうです。
また、ヒレルとも友人として交流があったそう。ヒレルが亡くなる2カ月前には、「レッチリがアリーナで演奏するほどの人気と名声を得ても、それでもバンドのことが好きか?」と尋ねられ「いいや、そうなったらもう終わりだ。」という旨の会話を交わしたそうです。
この間、ジョンはフランク・ザッパが率いるバンドのオーディションへも参加しています。しかし、最終選考直前で気が変わり、オーディションを途中で抜けてしまいました。
理由は、フランク・ザッパとそのバンドが、メンバーのドラッグ利用を禁じていたため。ジョンは当時ロックスターへの憧れが強く、また「ロックスターは薬と女をこなしてナンボ」と考えていたのです。
1988年にレッチリ創設メンバー・ギタリストのヒレルがドラッグのオーバードースで亡くなり、創設メンバー・ドラマーのジャック・アイロンがヒレルの死に心を病み、バンドを脱退。
バンド自体は、3つのアルバムをリリースしており既に一定の人気を獲得していました。
創設メンバー2人を失い、残された2人(ボーカルのアンソニーとベースのフリー)はマネージャーと今後について話し合った結果、バンドの存続を決意。意気の合うギタリストとドラマー探しが始まります。
フリーはジョンへオーディションを受けるよう声を掛けます。そしてジョンは見事に合格(他のギタリストが一度採用された後、クビになったりもしている)。当時ジョンは大喜びで、家の中を叫び声をあげながら走り回ったそうです。
レッチリは当時から、ロックにファンクとラップを混ぜ込んだスタイルでした。が、当初ジョンはファンク系のギター演奏には「そこまで」詳しくなかったそう(それでも相当なものだったとは容易に想像できますが...)。
そこで、ヒレルのギター演奏を参考にしつつ、フリーからの指導を受けて、レッチリのスタイルに馴染む演奏を心がけていったそうです。
ジョンが加入して数週間後にドラムのチャド・スミスもバンドに加わり、アルバムの作曲とレコーディングが開始。1989年にアルバム「Mother's Milk」がリリースされます。
このレコーディングにはMichael Beinhornがプロデューサーとして迎えらえました。ヒレルのスタイルを模倣するジョンに対して、プロデューサーはこれまでにバンドがリリースした作品にはなかった、ヘヴィなギターサウンドを要求します。
両社の意見の相違から衝突も度々ありましたが、プロデューサーの方がスタジオの仕組みやレコーディングに詳しかったことから、ジョンは渋々従うことに。
バンドに加入したばかりのジョンとしては、彼の参加を機にバンドがダメになったとは言われたくないし、相当な心労があったはずです。
このプロデューシングと、ジョンのギター、チャドのドラムがバンドに加わり、これまでの作品よりメロディアスな楽曲が増えた作品となりました。また、商業的にもこれまでの作品と比べて大きな成功をおさめます。
次のアルバムはリック・ルービンというプロデューサーを迎え、彼の自宅でレコーディングが行われました。
とはいえ単なる宅録ではなく、プライベートスタジオも備えたような大きな家です。この家にほぼ缶詰め状態でアルバムは製作されました。
1991年にリリースされた「Blood Sugar Sex Magik」は、これまた大成功。レッチリのチャート自己記録最高位である3位につき、世界で1300万枚を売り上げました。
バンドのメンバーの予測をはるかに上回るこのアルバムの成功を機に、レッチリは「ロックスター」となります。
この成功は喜ばしいものであると同時に、ジョンは悩み、バンドから離れたいと思うようになりました。
バンドはツアーを行います。もちろん、突然めちゃくちゃ人気が出てめちゃくちゃ忙しくなるため、ジョン以外のメンバーも精神的・肉体的にも疲労していきます。
この時期、ライブのステージ裏でジョンとボーカルのアンソニーが口論となることも多々あったようです。原因はジョンの「いくらなんでも人気が出すぎだ。こんなのは求めていなかった。ただ2年前みたいにクラブで曲を演奏していたころの方がよかった」という旨の発言。
この頃ジョンは既にバンドを去ることを考えていました。というよりも極度のストレスとプレッシャーで、ツアー中に「このツアー中お前は失敗する、今すぐバンドを辞めろ」という声が脳内に響いていたそうです。
一度は「快楽に身を任せよう」と女の子たちと遊び呆けて考えることを止めようとしたこともあったそうですが、長続きせず逆に「自身のやりたいことをしたい」と芸術志向が高まり、より反ロックスター感情が増幅。
そして1992年、東京でのライブにおいて、バンドを去ることをメンバーに伝えます。強く引き止められましたが、翌朝カリフォルニア行きの飛行機にのって帰ってしまったのでした。
Meat Puppetsというバンドのクリス・カークウッドが言うには、レッチリを去った直後のジョンがMeat Puppetsのギタリストオーディションに参加していたとのこと。
ケースに入れないままのギターを抱えて裸足で現れたジョンと演奏しましたが、バンドとしてもジョンとしても当時は良いフィーリングが得られなかったため、ジョンがバンドに加入することはなかったそうです。
もともと大麻を嗜んでいたジョンですが(バンドの、レッチリのツアーを行う頃から、ストレス・プレッシャーが原因でヘロインなどのドラッグにも手を出し、より依存していくようになりました。
1992年にバンドを去りカリフォルニアへ帰ってからは、「全て終わった。もう音楽を演奏することは出来ないんだ」とほぼ鬱状態。絵を描いたり、短編の物語を書いたり、楽曲の製作などを行っていました。その傍ら、鬱から逃げるようにヘロインに依存していきます。
ほぼ廃人のような状態でありながらも、数枚のソロアルバムをリリースしました。
バンドを止めてドラッグ依存に陥ってから5年ほど経過した1996年、ヘロインは辞めましたが数か月後にアルコールとクラックに手を出してしまい依存。
1998年に友人のBob Forrestの力を借りてリハビリ施設に入所します。ぼろぼろの歯を全て取り除きインプラントにしたり、腕の潰瘍手術のために皮膚移植をするなど、身も心もぼろぼろだったそうです。
1か月後に施設を出て、社会復帰を成し遂げました。
復帰後、ジョンハ一気に健康的で落ち着いた生活へと身を振ります。ドラッグ無しで自身の内面と向き合ったり、食事でも摂るものに気を遣うようになりました。また、この新たに獲得したライフスタイル・人生観を維持するために、性的な行為からも距離を置くようになります。
文字通り180度変わり、「ドラッグはクソだ。今は本当に好きなことに取り組むことが出来て、数年前にやっていたようなことは全く必要ない。より良いミュージシャンになろうと取り組み、健康的な食事をしていると、麻薬に溺れていたあの時期よりも高揚感を感じる。自分が世界で一番幸せな人間だと思う」という旨の発言もしています。
また、ジョン自身は依存していた時期を「暗黒時代」とは考えておらず、心身ともに生まれ変わるために必要だったととらえているそうです。
ジョン脱退後、レッチリは別のギタリストを加えて活動していましたが、そのギタリストが1998年に脱退。バンドは「今こそジョンを呼び戻すときだ」と、再加入を呼びかけます。
フリーがジョンの家を訪れその事を伝えると「これ以上に嬉しいことはない」とその要請を受諾。
ジョンが加入してすぐアルバムの製作とレコーディングが始まり、1999年にアルバム「カリフォルニケイション」がリリースされます。
このツアー中も自身で楽曲制作を行い続け、ソロアルバムもリリース。正に「やりたい事だけに時間を注いでいる」といった感じで、精力的に活動していますよね。
2002年には、ジョンがレッチリで取り組んだ4枚目のアルバム「By the Way」がリリース。またこの傍ら、自身のソロ楽曲の製作や、「The Brown Bunny」という映画の楽曲などを制作。
ギター演奏の考え方もテクニックではなく、音などの質感により重きを置くようになり、バンドの演奏は4人の一体感が以前よりも増していきます。
By the Wayのツアー中である2004年、また別のプロジェクトとして「The Mars Volta」というバンドを別バンドのミュージシャンたちと結成。
さらにツアー終了後の六か月間の休暇中に、6枚ものソロアルバムをリリースします。
「休暇中の目標は出来る限り多くの曲をレコーディングすることだった。曲のストックをリストアップすると70程だったので、これらをレコーディングしつつ新たな曲も制作した。」と、まさに怒涛。この期間を「自身の人生で最も創造性のある時期だった」と言います。
2005年に、ジョンがレッチリで取り組んだ5枚目のアルバム「Statium Arcadium」の製作が開始。これまでに培ったギター演奏と音楽知識、またそれらを組み合わせて産み出される新たな創造。
ジョンのこれらの能力をフルに活かして製作されたこのアルバムは、これまでの作品とはまた違うテイストの作品となりました。このアルバムも大成功をおさめます。
アルバムツアーを終えた2007年に、レッチリは休暇のためにバンドの不定期活動休止を宣告します。
2009年、バンドが活動を再開するのと同時に、ジョンの脱退と、次ギタリストのジョシュ・クリングホッファーの参加がアナウンスされました。
この脱退は前回のような険悪なものではなく、円満。ジョンが自身の音楽制作に時間を注ぐために必要な決断だと判断し、バンドのメンバーもそれを快く受け入れました。また、ジョシュはジョンの別プロジェクト「Ataxia」というバンドのメンバーでもありした。
レッチリを脱退後の2009年、ジョンは自身の10枚目のソロアルバム「The Empyrean」をリリース。このアルバムにはレッチリのフリーやジョシュが参加していることからも、円満脱退であったことが分かります。
The Mars Voltaでの活動や、「Little Joe」というドキュメンタリー映画への楽曲提供など精力的な活動は続きます。
また、2011年にはレッチリが米ロックの殿堂に名を刻むことに。バンドはインタビューで、「授章式にフルシアンテがは参加するか」と尋ねられ、ジョンのバンドへの貢献とミュージシャンとしての素晴らしさについて述べつつ、「彼はおそらく姿を現さないと思う。もちろん来てくれるとそれは素晴らしいけど、参加しなくてもクールであることに変わりない」とジョンの人間性を見越して、当日の参加を強要するつもりはないことを表明。
予想通り、ジョンは授賞式に姿を現しませんでした。これはバンドとの仲が悪いとかというわけではなく、ジョンの「殿堂入りは素晴らしいことだが、興味はない」というスタンスで、自身のやるべきことを重視した結果なのでしょう。
ギタリストでありコンポーザーであるジョンは、次なるステップとしてエレクトロ系の楽曲制作に取り組みます。
プログラミングなどを学び、まずはアシッドハウス系の楽曲を制作。2010年には仲間と組んだユニットで同ジャンル曲のEPをリリースします。
その後もいくつかエレクトロ系のアルバムをリリースしています。
実はジョンのソロアルバムはレッチリのそれと比べて商業的に成功していません。また、そこまで有名でもありません。
これは、ジョンが「他人の評価」や「メインストリームでの成功」を気にせずに自身の中から湧き出る創造性をただひたすらに形にしているため。売り上げや成功を目的としていないのです。
現在も健康的な食事をとり、適度な運動を行い、新たな音楽の知識を身に付けて、好きなだけ楽曲を制作するという生活を続けているようです。
音楽の深淵を追及するその姿はまるで仙人のようですね。ファンの多くも、ジョンが平穏の日々を掴み、やりたい事だけに取り組んでいる様子を見て、応援しています。
・基本的に、楽曲が単に人に媚びたり、ビジネスサイドの人たち(おそらく音楽業界の人たち)を喜ばせるために作られていたら、そんな曲はあまり好みではない。もしあなたが有名になるためだったり、大衆に受け入れられるために曲を作っていたら...私がやっていることはそうじゃない。もし誰かが間違った目的で曲を制作していたら、私はすぐにそれを聞き分けるよ。
・心の支えとなっているのは家でレコーディングを行えることだ。そのようにして実験的な取り組みをしている方が、エンジニアと一緒に制作をしてそのやり取りでストレスを抱えるよりもずっと楽しい。
・ソロの曲に関して、それが商業的に成功することは全く望んでいない。セールスが少なくても、私が私自身でいることを喜んでくれる人たちがいることを心から嬉しいと思う。
以上、本記事ではジョン・フルシアンテの人生と音楽観に焦点を当てて解説しました。お楽しみいただけたら幸いです。
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